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1.剣道の復活
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古来剣道は、武芸十八般のうち、武士の表芸として尊ばれ、江戸時代より体系化が進められ各流派の興隆、剣道具の開発など大いに発展し、伝統的日本文化として現在に至っている。しかし、その間、明治初期と太平洋戦争後の再度にわたる剣道存亡の危機、受難の時期を経験したのである。

太平洋戦争の殺人的武器としてのイメージ、戦後連合国軍による武装解除の一端として剣道禁止令、大日本武徳会の解散等により、大きな打撃を受けた剣道界であったが先人諸氏の言いがたい苦労と努力の結果、各地に剣道復活の機運が高まり、本県においても昭和27年9月14日静岡県剣道連盟が結成された。このような全国的機運を統括する組織として全日本剣道連盟が昭和27年10月14日発足したのである。

2.富士宮地区剣道連盟の設立
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戦後、剣道復活の機運は、戦前、戦中、大日本武徳会富士宮支部として活動を続けてきた当地にも及び、富士宮支部長であった矢辺繁吉を中心に、稲葉長勝、須藤作造、土井武明、里芳早夫郎、興津忠雄、井上俊昴、後藤和田、宮崎敏、白井輝男、足立一男、柴田俊太郎、渡辺民雄、土屋範、斉藤智三等、同好の士が相寄り協議を重ねた結果、矢辺繁吉を初代会長として、昭和28年10月富士宮地区剣道連盟が発足した。この連盟設立に当たっては、当時、当地の剣道界の重鎮であった清和三郎の陰ならの尽力も忘れてはならない。

初代会長矢辺繁吉の覚え書きに、「設立当時個人道場主、剣道達士保持者清和三郎先生の道場が現在の貴船公会堂附近にあったことを記憶する。残念乍ら一度も指南を受けられなかったが、大変お世話になった」とある。

この地にも多くの方々の支援と協力があったものと推察される。

3.剣道連盟草創期
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連盟は発足したものの、戦後の混乱期からは、まだ抜けきらず稽古をするにしても場所はなく、剣道具、竹刀も十分ではなかった。

設立に関係した人々の努力により警察署(現在の中央町駐車場)の道場や、小学校の講堂を拝借しての稽古であり、その員数も数多いものではなかった。

当時のことをよく知る古老は、「剣道具も竹刀も貸与いたしますからぜひ剣道をやってください。」と剣道普及に努力をしたそうである。そして昭和29年連盟設立記念大会を開催すべく努力した次のような趣意書が残されている。

趣 意 書

講話発効以来、特に一ヶ年、あらゆる産業に、経済に、将々、スポーツを通して国民体位の向上に、民族の自主性を昂揚し、名実共に独立日本の再発足に相応しい各種の革新が着々、その成果をあげておりますことは、誠に御同慶の至りであります。
殊に我が国が国際社会の一員として、世界の檜舞台に進出するためには、外国人に劣らぬ体位の向上と共に日本民族の誇りと謙虚さとを兼ね備えた精神的バックボーンが必須条件であることは申すまでもありません。
私達が愛好してやまない剣道が戦時中、その勝負を決する最後の武器として、誤まれる戦争指導者の好餌に供せられた事は、誠に遺憾至極である。戦後、その復活が恰も反動的復古調の標本の如く評せられる向もありますが、剣道の真髄は決して左様なものでないことは、古今剣聖と評せられた人達の言動、遺訓を繙けば、一目瞭然であります。
古来、我が国は尚武の国として自負し、剣は民族の象徴として尊ばれて来たのでありますが、武は本来「戈」を止めるもの。和を以て尊しとなす剣は「活人剣」を以てその極意としたものであります。従って剣道は、相撲・柔道と共に所謂、国技として古来、平和を愛好する我が国民性に相応して、前述の如き現在の我が国情を思いあわせて剣道復活、興隆は、誠に時宜に適したものと確信するものであります。
今や中央に於いては、木村保安長官を会長とする全日本剣道連盟の発足の機運が熟しつつある。本県に於いても昨27年9月14日静岡市公会堂に於いて、非常な盛況裡に静岡県剣道連盟の発足をみたのである。
当富士宮地区に於いても同好の士を相募り自らの修練・研鑽と共に、青少年の体位向上と思想善導を目指し、此の度、富士宮地区剣道連盟を結成して斯道の振興を期するべく、結成を兼ねて剣道大会を開催せんとするものであります。
何卒、右趣意書御賢察の上、全幅の御後援と御賛同易り度く、謹んで御願い申し上げます。

昭和29年1月1日
静岡県剣道連盟富士宮支部 会長
富士宮市長様

 現在とは、政治、経済、社会的環境の全く異なる困難をきわめた時代に、剣道再建にその情熱をかけた先人、諸先輩の思いのたけが理解できると思う。

4.剣道連盟の発展期
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昭和30年代、日本の神武景気、岩戸景気を軸として高度経済成長期を迎え、新幹線の開通、東京オリンピック開催、日本万国博覧会開催等、戦後日本経済成長の中で剣道界も復興から発展へと転換期を迎えることとなった。創立以来の行事、富士宮地区剣道祭に加え、都市対抗剣道大会も行われるようになった。

昭和30年代 大宮小学校
講堂にて行われた剣道大会

昭和30年代の年譜
昭和30年・土井武明剣道教士号授与
     ・里芳早夫郎剣道5段授与

  32年・吉野駒吉剣道6段授与

  33年・石川宣雄剣道錬士号授与

  34年・矢辺繁吉、里芳早夫郎、興津忠 雄剣道錬士号授与
     ・藤田富士弥剣道5段授与

  35年・井上眞三郎剣道5段授与
     ・矢辺繁吉富士宮市制施行記念表彰教育文化功労賞受賞

  36年・宮崎敏剣道錬士号授与

  37年・藤田富士弥剣道錬士号授与
     ・石川栄男剣道5段授与
     ・佐野征宏第1回石垣杯剣道大会優秀選手賞受賞

  38年・第1回都市対抗剣道大会開催
     ・土井武明剣道7段授与

     ・斉藤智三、佐野増男剣道5段授与
     ・矢辺繁吉富士宮市体協副会長就任
  39年・稲葉長勝、土屋範剣道6段授与
     ・椎場小太郎剣道教士号授与
     ・宮崎敏剣道7段授与
     ・宇佐美正一剣道錬士号授与
     ・土井武明新潟国体出場
     ・石川栄男、村上佳彦、佐野東治、全国都道府県三競技青年祭出場

 昭和40年代は、剣道もますます発展を続け、会員の増加、中学校、高校での部活動の活発化、少年剣士の増加に伴う少年部、スポーツ少年団の創設等とともに、昭和42年には、市立体育館、46年市立武道館の建設竣工と剣道を行ずる環境も整えられ、富士宮、富士市剣道連盟との交流も盛んとなり、まさに「交剣知愛」剣を通しての交流、人間教育、青少年育成が本格的に行われるようになった。
 
また、この時期には「昔とった…」とばかり、長い間剣道を温めていた先生方すなわち柴田俊太郎、里芳早夫郎・興津忠雄・足立一男の古豪に続き、尾藤勉・石坂栄造・石川栄男・村上佳彦・清寿康・小松富士雄・佐野征宏等若手剣士も積極的に稽古に参加するようになり、さらに昭和42年岩瀬千鶴男が県立富士宮農業高校(現富岳館高校)へ、昭和43年井上眞三郎が県立富士宮北高校へ赴任し、剣道連盟と学校関係との連携もより一層親密となり、稽古も富士宮農高体育館、富士宮北高北辰館でも行われるようになった。
 
一方連盟傘下にあった芝川地区でも、大内康久・清武満・佐野和義・森昌樹・佐野義治らの熱心な指導と地域の理解のもとに、昭和47年5月、芝川町剣道スポーツ少年団が組織され、第1回少年剣道大会が開催され、地域を挙げての活動は今日まで続けられている。
 
このような機運の中、今まで個人的な指導として行われてきた少年剣道も昭和43年剣道スポーツ少年団として組織化され、45年富士宮少年剣道部として連盟の下部団体として活動するようになり、剣道大会にも少年の部が新設され、少年剣道最盛期を迎えることとなる。
 
この発展期にさらなる朗報は、当時の理事長白井輝男を中心とする連盟会員と、佐野忠雄会長を中心とする富士宮柔道会の働きかけにより、昭和46年春、待望の市立武道館の完成をみ、10条にわたる富士宮市立武道館条例・施行規則も整備され、5月使用開始となり、今まで渡り鳥的な稽古を続けてきた会員たちに、やっと安住の地が確保された思いであり、自来平成2年現市立体育館武道場が完成するまでの20年間武道のメッカとして隆盛を極めたのである。
 
この武道館建設に当たっては、柔・剣道関係者の熱意はもちろんのこと、何より最大の理解者であった山川斌市長、すなわち当時の剣道連盟会長の尽力あったればこそと感謝の気持ちでいっぱいである。

旧市立武道館(現在の市役所)にて

昭和40年代の年譜
昭和40年・土屋範剣道教士号授与
     ・井上俊昴、渡辺民雄剣道5段授与
  42年・白井輝男剣道6段授与
  43年・富士宮少年剣道部創設
     ・剣道スポーツ少年団結成
     ・NHKテレビ出演のため少年部一般会員富士登山、山頂にて素振り披露
  44年・矢辺繁吉岳南朝日体育賞受賞
     ・井上眞三郎剣道6段授与
     ・井上眞三郎剣道錬士号授与
  45年・第1回富士宮市少年剣道大会開催
     ・市民剣道祭に少年の部を新設
     ・土井武明静岡県体育協会創立記念表彰
  46年・富士宮市立武道館竣工
     ・第13回世界ジャンボリー大会に参加出演 野試合披露
     ・柴田俊太郎剣道7段授与
     ・矢辺繁吉静岡県体育協会 体育功労賞受賞
  47年・市制30周年記念剣道大会開催
     ・連盟役員若返り人事を決定
     ・土井武明会長静岡県剣道連盟 副会長に就任
     ・富士宮地区剣道連盟の名称を富士宮剣道連盟と改称する
     ・第1回芝川町少年剣道大会開催
     ・宇佐美正一剣道教士号授与
  48年・第1回芝川町剣道スポーツ少年団剣道大会開催
     ・尾藤勉居合道5段授与
  49年・第5回県下少年剣道大会出場準     優勝
     ・椎場小太郎剣道7段授与


5.剣道連盟の確立期
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この時期は、全国的現象であり課題でもあった戦後の10年間の空白による年代的断絶が問題視されるようになった。戦後、剣道復活に青春をかけてきた人々の老齢化と戦後派との断絶である。当連盟においてもややこの傾向があり、若手による連盟運営をとの話し合いが数度にわたり行われ、当時の山川会長、白井理事長、土屋事務局長、それに各長老の英断と理解により昭和47年に新しい執行部が次のように決定された

名誉会長
 山川 斌
顧  問
 矢辺繁吉
参  与
 柴田俊太郎、里芳早夫郎、興津忠雄
会  長
 土井武明
副会長
 宮崎 敏、白井輝男、藤田富士弥
理事長
 井上眞三郎
事務局長
 石坂栄造
常任理事
 岩瀬千鶴男、尾藤 勉、大内康久
 石川栄男、佐野征宏
理  事
 北古味 雄、秋山 勲、小松富士雄、
 清 寿康、興津俊教
監  事
 興津忠雄、里芳早夫郎
少年指導
 藤田富士弥、岩瀬千鶴男

 この人事は、伝統を重んずる剣道界にあっては画期的なことで、長老、先輩諸氏の深い理解と剣道を心から愛する大きな気持ちのもとで、若手中心の執行部が誕生したことは、県下剣道界の世代交代の先駆をなすものであった。新しい陣容で迎えた50年代は経済の高度成長期も終局し、落ち着いた日本経済、社会が形成された時期でもあったか、剣道界はまだ剣道ブームの時期であり、青少年の健全育成のため社会体育の一環として大いに期待されてきた時期でもあった。
会員一同意気に燃え一丸となって連盟運営に当たっているとき、昭和50年1月、今まで理事長、副会長として連盟設立以来、その中心として活躍してきた白井輝男6段を病のためとはいえ失ったことは連盟発展のためには多大な損失であった。

昭和50年代の年譜
昭和50年・副会長白井輝男先生ご逝去
     ・井上眞三郎第30回国民体育大会(三重)出場
  51年・井上眞三郎剣道教士号授与
     ・佐野征宏剣道錬士号授与
     ・尾藤勉剣道5段授与
  52年・市制35周年記念剣道大会開催
     ・尾藤勉居合道錬士号授与
     ・藤田富士弥剣道7段授与
  53年・石川栄男剣道教士号授与
     ・深澤与一剣道5段授与
  54年・第11回県下少年夏期錬成大会出場 低学年の部第4位 
                       
高学年の部第3位入賞
     ・井上眞三郎、矢辺繁吉剣道7段授与
  55年・第1回富士宮市中学校新人剣道大会開催 
     ・剣湧会創立
     ・第11回県下少年剣道大会出場  高学年の部第3位入賞
     ・佐野征宏剣道6段授与
     ・参与柴田俊太郎先生ご逝去
  56年・土井武明岳南朝日体育賞受賞
     ・深澤与一剣道錬士号授与
     ・矢辺立夫剣道5段授与
  57年・市制40周年記念大会開催
     ・市川光雄居合道6段授与
     ・清水 明居合道5段授与
  58年・土井武明全国高齢者大会出場準優勝
     ・佐野征宏剣道教士号授与
     ・加藤恵基剣道錬士号授与
     ・井上眞三郎全国高体連剣道部長より表彰状授与
     ・井上眞三郎全国教職員剣道大会20回出場により
                    
全国学校剣道連盟より功労賞を授与
     ・岩瀬千鶴男剣道錬士号授与
     ・藤田富士弥スポーツ少年団育成により全国表彰
     ・岩瀬千鶴男スポーツ少年団育成により
               
富士宮市スポーツ少年団本部長より表彰状授与
  59年・第1回剣湧会大会開催
     ・井上眞三郎第39回国民体育大会(奈良)出場
     ・海野隆剣道錬士号授与
     ・岩瀬千鶴男スポーツ少年団優秀指導者として県本部より表彰状を授与


6.富士宮剣道連盟少年部
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富士宮剣道連盟少年部の創設は昭和43年7月、富士宮尚武剣道スポーツ少年団として団員8名をもって組織化されたことに始まり、指導者として興津俊教が当たっていた。稽古も富士宮第2中学校グランドに始まり、旧警察署道場と大変苦労した模様であったが同年8月の富士宮地区剣道祭に参加したときには団員も15名を数えるに至った。昭和45年3月、会長佐野治昌、事務局長伊藤秀雄、会計三木龍介の諸氏を中心として、スポーツ少年団剣道少年部後援会が発足した。指導陣も興津俊教に加えて、藤田富士弥、岩瀬千鶴男が参加。稽古も市立体育館にて週3回実施するようになり、充実・盛況をみるに至った。
同年9月、剣道少年部後援会の第1回総会が行われ、会長渡辺高、事務局長望月貞治、会計芦澤良雄らが選出され、より強固な指導、後援体制のもと団員も31名に増加、名称も富士宮少年剣道部と改称、富士宮剣道連盟に所属することとなった。
爾来36年間、現鈴木雅臣会長まで剣道を通して少年の健全育成に多大の功献を果たしてきた。これらの功績は他の認めるところなり、当時の指導者藤田富士弥が昭和58年全国表彰を、岩瀬千鶴男が市表彰を受け、さらに59年には県スポーツ少年団より岩瀬千鶴男が優秀指導者として表彰状を授与された。

昭和60年代から平成7までの年譜
昭和60年・岩瀬千鶴男剣道6段授与
  61年・佐野征宏剣道7段授与
  62年・清水 明居合道錬士号授与
     ・海野隆剣道6段授与
     ・小林孝剣道5段授与
     ・井上眞三郎、中山茂宣(富士宮西高3年)
               
第42回国民体育大会(沖縄大会)出場
     ・参与里芳早夫郎先生ご逝去
     ・市川光雄居合道錬士号授与
  63年・文武館創立
     ・第1回文武館青葉少年剣道大会開催
     ・顧問矢辺繁吉先生ご逝去
     ・参与興津忠雄先生ご逝去
 平成元年・佐野修一郎剣道5段授与

富士宮市立武道館お別れ稽古会
平成元年8月31日

   2年・市民体育館武道場落成
     ・清武満剣道5段授与
   3年・静岡県警察剣友会と合同稽古を行う
     ・岩瀬千鶴男剣道教士号授与
   4年・井上眞三郎第47回国民体育大会
           (山形国体)出場。27年ぶり静岡県チームとして全国3位に入賞
     ・宇佐美正一第5回健康福祉祭(ねんりんぴっく)山梨大会出場
     ・黒木今朝美剣道5段授与
   5年・顧問土井武明先生ご逝去、先生の
             功績に対し全日本剣道連盟より剣道範士号が追授される
     ・佐野眞史(富士宮西高3年)第48回国民体育大会(徳島大会)出場
     ・足立一男剣道教士号及び剣道7段授与
     ・岡田道弘剣道5段授与
     ・井上眞三郎東海4県大会(岐阜)大将出場、岳南朝日新聞社スポーツ奨励賞受賞
     ・市川光雄居合道7段授与
     ・清水明居合道6段授与
   6年・富士宮剣道連盟創立40周年記念大会開催
     ・井上眞三郎第49回国民体育大会(愛知大会)出場
     ・市川光雄居合道教士号授与
     ・矢部省三剣道5段授与
   7年・加藤恵基剣道6段授与
     ・佐藤哲郎、三浦健志剣道5段授与

7.激動期
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前述の年譜が示すとおり、昭和60年から平成7年にかけて、本連盟にとってはまさに激動の時期であったと言っても過言ではない。まず第一に戦後から終始一貫、富士宮の剣道界を支えてきた名剣士が相次いで他界されたことである。中でも会長、顧問として全県下的に活躍された矢辺繁吉、土井武明の両先生を失ったことと、さらには柴田俊太郎、里芳早夫郎、興津忠雄の諸先生方、まことに残念の極みこの上ない悲しみである。土井先生はその長年にわたる功績が認められ、当富士宮地区では初めて全日本剣道連盟から剣道家として最高の栄誉である剣道範士号を追授されたことを付記しておく。第二には、剣道人の減少化である。昭和60年代まではまだ剣道ブームの余韻もあり、剣道人口もそれなりに維持を保ってきたが、平成の世になりスポーツの多様化、価値観の多様化、その上に少子化現象も加わり、剣道を修業する者の員数は激減の一途と言わざるを得ない。

平成8年から現在までの年譜
   8年・副会長宇佐美正一先生ご逝去
     ・井上眞三郎富士宮市体育協会副会長就任
   9年・井上眞三郎第10回全国健康福祉祭剣道大会(山形大会)出場、全国ベスト8
     ・井上眞三郎静岡県剣道連盟副会長就任
  10年・第3回東部剣道大会(富士宮西高)開催
     ・黒木今朝美、岡田道弘、矢辺立夫 剣道6段授与
  11年・山梨・静岡親善剣道大会(富士宮西高)開催
     ・井上眞三郎第12回全国健康福祉祭剣道大会(福井大会)出場、全国ベスト8
  12年・小松富士雄、佐藤平八郎剣道5段授与
  13年・海野隆剣道7段授与
     ・佐野修一郎剣道6段授与
     ・深澤修剣道5段授与
     ・望月宏宣 剣道5段授与
     ・岡田道弘黒木今朝美剣道錬士号授与
  14年・須藤宏一郎剣道5段授与
     ・遠藤佳人剣道5段授与
     ・佐野修一郎剣道錬士号授与
  15年・第8回東部剣道大会(富士宮市民体育館)開催
     ・富士宮剣道連盟創立50周年記念大会開催
     ・第58回国民体育大会(静岡国体)井上眞三郎(総監督)
                    
河野由香利出場 部門別総合優勝
     ・三浦健志剣道6段授与
     ・加藤恵基剣道7段授与
     ・河野由香利剣道5段授与
     ・理事小松富士雄先生ご逝去
  16年・第58回県民スポーツ祭剣道大会(富     士宮市民体育館)開催
     ・小林万寿男剣道5段授与
     ・第50回富士宮市民剣道大会開催
     ・海野隆剣道教士号授与
     ・三浦健志剣道錬士号授与
  17年・井上眞三郎岳南朝日賞体育部門受賞
     ・井上眞三郎富士宮市体育協会功労賞受賞

 
ここで富士宮剣道連盟の傘下団体について記してみると、市内北部地区より「人穴体協西富士剣友会」があり、岡田道弘を中心として小中学生の指導にあたっている。上井出には「上井出剣道スポーツ少年団」があり、井出一男、倉田隆夫が少年の指導をしている。上野には「習武会」があり、大石寺内道場において椎場小太郎、河野由香利が指導している。外神には石川栄男率いる「源流館」があり、小中高一般と幅広い年代の人達が稽古に集まっている。少年大会等でも活躍し、一般も各種大会へ積極的に参加している。毎年剣湧会主催の少年剣道大会を開催している。
 
富岡には少年大会における一時代を築いた感のある「文武館足立道場」があり、足立一男が少年の指導にあたっていたが老齢のため現在は足立和俊が主になっている。毎年青葉少年剣道大会を開催していたが、部員の減少から大会は実施されず、現在は稽古のみ活動している。また市外には芝川町に「芝剣友会」があり、活発な活動を続けている。特に「芝川町剣道スポーツ少年団」の各種大会における活躍振りは、指導者層の厚さと、町をあげての剣道に対する応援、情熱、そしてもちろん少年達の努力、精進のたまものであると思われる。年2回の剣道大会を主催しているが、それは芝川剣道スポーツ少年団発団記念大会と、芝川町少年剣道大会である。初代団長は佐野保彦、2代団長大内康久、3代団長清武満、4代団長深澤修そして現在は佐野義治である。居合道部も初代代表市川光雄、現在は清水明を中心に、清武満、四條洋成等と稽古を行っている。以上の団体が各地区で、それぞれ活動を続けている。

 平成13年には再度執行部の若返りを図った。主な役員は次のとおり

会 長
 井上眞三郎
副会長
 大内康久、加藤恵基、石川栄男、佐野征宏
理事長
 矢辺立夫
事務局長
 三浦健志

 平成15年9月には富士宮剣道連盟創立50周年記念大会を多くの方々のご協力、ご支援のもとに開催することが出来た。剣道大会に先立ち、記念式典を執り行った。創立40周年記念式典以降亡くなられた元副会長宇佐美正一先生と元常任理事小松富士雄先生に対し井上会長より慰霊のことばが述べられ、出席者全員で黙祷を捧げた。続いて表彰式にうつり、功労賞を、岩瀬千鶴男、椎場小太郎、足立一男、尾藤勉、深澤与一、村上佳彦、小松富士雄、市川光雄、清水明の各先生方に、感謝状を、富士宮剣道連盟少年部育成会、芝川町剣道スポーツ少年団、剣湧会の各団体に贈り表彰した。引き続き富士市剣道連盟思恩会選抜チームと富士宮剣道連盟選抜チームとの模範試合を行い、無事式典を終了した。大会開会式に続き日本剣道形の演武、高段者による模範演武(立合い)を披露し大いに会場を盛り上げた。役員、会員共々創立50周年以後の富士宮剣道連盟の在り方について深く考える事の出来る有意義な大会であった。
 
同15年には全県下的に待ち望んだ第58回国民体育大会(静岡大会)が開催され、当連盟より剣道の部総監督として井上眞三郎会長が、又選手として当連盟の女性としては初めて成年女子の部に大将として河野由香利が選抜され出場し、剣道の部総合優勝に、静岡県チームの天皇杯獲得に大きく貢献した。
 
平成16年には当連盟としては区切りとなる第50回富士宮市民剣道大会を開催し、盛会裡に終了することが出来た。
 
全国審査(剣道6段以上、錬士号、教士号)に於いても複数の合格者を輩出し、県内審査最高段位である剣道5段にも数名合格している。その内河野由香利は当連盟発の女性高段者である。
 
平成16年度の役員改選により新しい執行部の体制となった。現役員は次のとおり

富士宮剣道連盟役員名簿
顧 問
 岩瀬千鶴男、大内康久
参 与
 足立一男、椎場小太郎、尾藤 勉
会 長
 井上眞三郎
副会長
 加藤恵基、石川栄男、佐野征宏
理事長
 矢辺立夫
理 事
 海野 隆、清武 満、矢部省三
 深澤 修、岡田道弘、黒木今朝美
 三浦健志、遠藤佳人
監 査
 椎場小太郎、尾藤 勉
事務局長
 三浦健志
事務局員
 黒木今朝美、遠藤佳人、渡井敏夫
会 計
 岩瀬紀彦
少年指導
 加藤恵基(主任)
 岡田道弘、小林万寿夫、永田 真
 井出一彰、土屋 学、石川裕一
 土屋 直

 以上の執行部により、市民体育館武道場を本拠とし、週三回の一般の稽古、火、土曜日の少年部の稽古、年3回実施する級位審査会、市民剣道大会(市民スポーツ祭参加)、市内少年剣道大会、中学校新人剣道大会、審判法、日本剣道形の講習会を年間事業として、行っている。また恒例行事としては、正月元旦より、市内高校生の初稽古会、2日には芝剣友会の初稽古会、3日には本体である富士宮剣道連盟の初稽古を浅間大社に全員で参拝し、素振りの奉納をした後、一般会員、小中高生、他地区剣連より多数の剣士が集い、盛大に行っている。

結びに
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近年の世相の乱れは信じがたいものがある。特に青少年の非行、犯罪の若年化、相互信頼の過失、想いやりの心や愛情の欠落、礼節、義、倫理、恥を忘れた行動の多さは目に余るものがある。この様な社会情勢の中で我々は剣道人として何が出来るのか、何をしなければならないのか、剣道をもってどの様に社会に貢献出来るのか、改めて世間から問われ、考えなければならない時期である。古来より剣の道の教えは「相手と剣を交え互いに切磋琢磨する中で、義を守り、勇気を持ち、仁を実行し、礼儀をもって他を尊敬し、誠実な人となり、心に名誉という自尊心を培い、両親、先生、先輩に忠誠を尽くし、そこに自己の人間性としての品性が生まれ、喜怒哀楽の感情を厳しく抑制することの出来る克己心が生まれる」としている。(交剣知愛)このような剣道思想のもとに、戦後の混乱期の中、現在の私達の為に必死の想いで日本の伝統文化である剣道の教義を残してくださった大先輩、諸先生方の御恩に報いるように、今度は我々が次の世代に正しく伝えてゆかなければならない。
 
本連盟の基本思想は「生活剣道」である。これは剣道を生活の中心に据え、稽古を続ける中で道場での数々の所作、挨拶、立ち居振舞が普段の生活の基になるように少年達を指導しようとするものである。
 
熱心に稽古を続けている小中高生、一般の剣士達と共に我々は各世代に適合する指導方法を工夫、研究し、相互に錬磨し合い、強く正しい剣道を目指している。全日本剣道連盟制定の剣道の理念に「剣道は剣の理法の修練による人間形成の道である」とあるように、剣道を通して実社会に役立つ「人づくり」をするべく、執行部、会員一同一丸となって、努力精進していく所存である。

平成18年度
初稽古富士宮剣道連盟 少年部 剣湧会 文武館 平成18年1月3日