- 富士宮野球連盟
- 富士宮ソフトテニス協会
- 富士宮地区卓球連盟
- 富士宮市陸上競技協会
- 富士宮市バレーボール連盟
- 富士宮柔道会
- 富士宮剣道連盟
- 富士宮市弓道連盟
- 富士宮山岳会
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- 富士宮市ソフトボール協会
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- 富士宮市テニス協会
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- 富士宮市ゴルフ連盟
- 富士宮市ハンドボール協会
- 富士宮市グラウンド・ゴルフ協会
- 富士宮市インディアカ協会
- 芝川リバースポーツ協会
- 富士宮市合気道連盟
1.はじめに
本協会は「富士宮ソフトテニス協会規約」(平成9年7月24日改正施行)にのっとって運営されている。国際化を目指して現行の規約に改正された以前の歩みをみると戦後間もなく市体育協会の発足時の母体の一団体として富士宮庭球連盟として組織され、底辺の拡大、強化に努め、昭和31年には全国都市対抗庭球競技大会を富士宮北高テニスコートで開催し、市制施行記念大会を初め各種大会を開催、全日本級の選手の輩出等の功績が認められ、昭和43年、全日本軟式庭球連盟より本部表彰を受賞した。そして、硬式庭球との区別の必要性より富士宮軟式庭球連盟と銘打って一層の充実を果たした。
昭和50年に市営テニスコートが東高跡地に完成し、テニス少年団の発足、専門部の活動により中学総体、高校インターハイ等で数々の好成績を残し、国体選手を常時、送り込んだ。
平成2年に現在の市テニスコートが外神に完成し、アジア成壮年軟式庭球選手権大会を開催、翌年、平三総体(インターハイ)を開催し大成功を収めた。
大会終了後、協会の発展、総体の開催に尽力された加藤勇会長が逝去されたことをバネに加盟19チームで各種大会、育成強化、テニス教室の開催等、諸事業を活発に実践している。指導者、施設、テニス人口の一層の充実と来る平成8年の全日本中学校ソフトテニス大会を開催し、大成功を収めた。
その後、平成15年静岡県で開催された国体には、当協会より役員、審判等に多数参加し、大会成功を担った。
2.沿革
富士宮のソフトテニスは80有余年の長い歴史と伝統を誇っている。本市でソフトテニスが始められたのは大正の初期で、筒井真吉氏、池谷卓之氏(大宮町)等が県下、神宮大会で活躍しながら富士地区の人々、中学生に普及したのが本市のソフトテニスの由来だと聞いている。やがて、この指導が実り全国的な選手を輩出した源となり富士地区のソフトテニス界の一翼を背負うようになった。
・昭和の初期
昭和6・7年、堀池兄弟(富士中、富士宮出身)が県中学校大会で優勝、第6回明治神宮大会で準優勝というすばらしい成績を収めた。大宮高女(現東高)の活躍も見られ、大宮商工(現北高)が開校(昭和14年)のころ第1回富士郡下庭球大会が大宮小学校にコートを急造して華々しく行われ、庭球熱を盛り上げた。このころから市内各地にコートがつくられ、市役所、学校、医師等が中心となって活躍しソフトテニスの普及に努めた。
・戦後
古山実、望月一訓氏のご尽力により連盟が設立され、富士地区の高校に指導者として堀池敬、篠原渡氏らが、そして中学校には、大石敏雄、佐野とし子氏らが熱心に指導に携わった。やがて、師弟の木野喬二、長田潤之助氏があとを継ぎ各中学校に庭球部が誕生し、県下でも屈指の庭球王国となった。
一般では、富士宮クラブが充実し、都市対抗、実業団で活躍した市役所クラブが牽引者となって市のレベルを引き上げた。愛好者の事業所としてニッピ、国立富士病院の活動も市民テニスの普及に好影響を与えた。学生では東高の男女の活躍が目覚ましく、その後は北高に引き継がれ全国につながった。
・昭和の後期から平成へ
昭和50年、4面の市営コートが旧東高跡地(現在の市役所)に完成し、全日本級の選手を迎え、盛大にコート開きを行った。このコートで多年にわたるテニス教室の開催に伴い多くの軟式庭球愛好者や選手が生まれ育った。昭和54年宮崎国体で石田・福石組の活躍により成年男子の部で静岡県が初優勝を遂げた。
昭和50年から60年代に実業団大会で県代表として市役所クラブが健闘した。平成に入り一般男子の田村・石川組、一般女子の吉野が県選手権大会、国体代表選手として活躍した。壮年の部では望月一訓選手が全国大会で活躍し、静岡県のシニアの牽引者として数々の功績を残した。選手層も厚くなり、県地区対抗、県クラブ大会、県選手権大会でも各部門で上位入賞を独占している。
年度別全日本ランキングにおいても小学生、中学生、高校、一般、成壮年の部門で上位に必ずランクされている。
平成2年、10面の市民テニスコートが完成し、記念大会としてアジア成壮年軟式庭球選手権大会を開催し、平成3年には全国高校総体、そして平成8年には全国中学総体を開催し、「ソフトテニス富士宮」としてますます充実してきた。
ソフトテニス協会のあゆみ
- 昭和21年 富士宮庭球連盟結成、同年山静大会開催
- 28年 富士宮市制施行記念大会市民大会開く
- 31年 県立富士宮北高にテニスコート10面完成、全国都市対抗(3競技)開催三笠宮殿下ご臨席
- 37年 富士地区連盟より分離独立
- 43年 全日本軟式庭球連盟より優秀団体として本部表彰受賞
- 故池谷卓之氏をしのび池谷杯大会開催
- 47年 テニススポーツの少年団発足
- 49年 都市対抗県大会優勝
- 50年 市営テニスコート4面完成
- 第1回筒井杯クラブ対抗大会開く
- 60年 大石杯中学校ソフトテニス大会開催(近都県)
- 平成 元年 富士宮第二中学校庭球部全国大会で優勝
- 2年 市民テニスコート10面完成
- アジア成壮年軟式庭球選手権大会富士宮で開く
- 3年 平三総体(インターハイ)開催
- 5年 ソフトテニス協会に名称変更
- 富士宮第二中庭球部個人全国大会個人優勝
- 加藤勇前会長をしのぶ会開催
- 6年 加藤杯開催
- 8年 全国中学校ソフトテニス大会開催
- 10年 大富士中学校男子ソフトテニス部全国大会準優勝
- 13年 石川好廣氏が日連より地方功労賞を受賞される
- 14年 佐野正和氏が日連より地方功労賞を受賞される
- 15年 静岡国体に当協会より役員として多数参加
- 16年 第1回石川好廣杯近都県選抜小学生ソフトテニス研修大会開催
功績者・歴代会長及び理事長
・功績を残した人々
池谷 卓之
筒井 真吉
大石 敏雄
加藤 勇
石川 好廣
代 | 会 長 | 理事長 |
---|---|---|
初代 | 古山 実 | 望月一訓 |
2代 | 堀池 敬 | 加藤 勇 |
谷 源一郎 | ||
3代 | 大石敏雄 | 石川好廣 |
井出昇三 | ||
佐野正和 | ||
4代 | 加藤 勇 | |
5代 | 石川好廣 | 石田秀明 |
6代 | 長谷川 漸 | 坪井正信 |
7代 | 河原崎義宏 | |
平野 修 | ||
8代 | 佐野正和 |
3.主な行事
(1)市制施行記念大会
市制施行を記念して昭和27年より県下のトップクラスの男女の参加を得て毎年11月3日(文化の日)に開催している。この大会が登竜門となり県全体のレベルアップに寄与した大会でもある。
(2)市民大会、スポーツ祭ソフトテニス大会
市民の健康維持、増進、親睦をソフトテニスを通して維進することを趣旨として開催している。
(3)ソフトテニスの日
秋晴れの一日、市民の老若男女が市テニスコートに集まり初心者の指導、ルールの勉強、プレーを楽しんでいる。
(4)富士宮インドア大会
近都県のトップの一般、成年、壮年の男子ペアーを招待して地元の選手と対戦させ強化を図っている。
この大会は、以前は近都県選抜大会と呼んでおり、創設者は望月一訓氏で、大成クラブの協力で行われていた。
(5)筒井杯クラブ対抗選手権
筒井杯は、富士宮市のソフトテニスの生みの親である故筒井真吉氏の功績を称えた大会で昭和50年に創設された。
筒井氏は明治31年三重県に生まれ、四日市市立商業高校卒業後王子鋳造(現本州製紙)に勤務し富士宮市高原に定住、静岡県庭球界入りした。
当時の静岡青葉クラブの前衛エースとして神宮大会で活躍し、県下各種大会で常勝、その間、庭球の普及に努力し、昭和初期の富士中(現富士高)庭球部黄金時代を築き、続いて東高、北高庭球部コーチを歴任、優れた理論と指導力で数々の名選手を育てた。昭和37年日本軟式庭球連盟功労賞、昭和43年岳南朝日体育賞受賞。こうした筒井氏の功績をたたえ、喜寿を迎えた機会に創設され現在も盛況に実施されている。
(6)池谷杯ソフトテニス大会
故池谷卓之氏の功績を記念した大会である。富士宮市東町の出身で昭和5年~7年までのテニス歴を持ち、その間、前衛として神宮大会(現国体)で活躍し「隼の池谷」と呼ばれた名コーチであった。
昭和43年10月、故人の業績をたたえ、またご遺族のご好意によりこの杯が設けられた。
中学生の新人大会で数々の名選手が歴代のチャンピオンとして刻まれている。
(7)大石杯加藤杯近都県選抜中学生大会
大石杯は、中学生の指導者として多くの名選手を育て、また学校長として学校運営、市内の教育者のリーダーで活躍、体協の副会長、協会の会長を歴任。数々の手腕を発揮した故大石敏雄氏の功績をたたえ中学生女子の強化を目的とした杯である。それに加え、ジュニアの指導者として多くの名選手を育て、現在の市民テニスコートの建設に尽力し、平成3年の全国高校総体の成功に多大に貢献した故加藤勇氏の功績をたたえ中学生男子の強化を目的とした加藤杯を併設した。
全国から全国制覇した中学校が来宮し、高いレベルで競い、この大会の上位チームが中学総体で大活躍している。
(8)石川好廣杯小学生ソフトテニス富士宮大会
石川好廣杯は、県下に先駆けて少年団を設立し、県連、協会の役員を多年にわたり歴任、平成8年の全国中学校ソフトテニス大会の成功に多大に貢献した石川好廣氏の功績をたたえた大会で、ジュニアの強化を目的とした杯である。
(9)ソフトテニス教室
市民に庭球熱が高まってきたことから、協会が自主的に初心者のために教室を開いた。
やがて、市教委社会体育課の主催の教室に移行し、ますます盛況となり市民の要望にこたえて、各クラス別の指導、高齢者教室等を開設した。受講者はどの教室も盛況で、指導陣も名選手を配置し、内容も充実させている。
終了後、クラブが続々誕生している。
4.諸団体のあゆみ
(1)スポーツ少年団
昭和47年に県下の少年団としては、最初のテニススポーツ少年団として結成される。大石会長、石川理事長らの指導陣、団員男女40名のスタートであった。以後、この少年団出身の選手が中学校・高校で活躍するようになった。中でも平成4年には、団体の部で男子が全国大会で第2位、平成7年には3位となり、その後も毎年、全国大会、東海大会に県代表として選手を輩出して富士宮ソフトテニススポーツ少年団の名を知らしめている。
現在は佐野正和会長を団長として指導陣8名、団員男女83名で日々精進している。
(2)中体連ソフトテニス部
昭和29年 第1回県中体連の団体の部で富士宮三中の女子が初優勝
昭和37年 富士宮二中の男子が団体の部優勝
昭和49年 富士根南中の女子が団体の部優勝
昭和50年 富士宮二中の男子が団体の部で2回目の優勝。その後、しばらく低迷が続く。
昭和60年 富士宮二中の男子が久し振りに団体で優勝。これを契機に昭和63年まで4年連続優勝に輝く。
昭和61年 富士宮二中の女子が優勝。昭和62年と合わせて2年連続男女アベック優勝を成し遂げ、富士宮二中時代が続く。
平成 元年 富士宮二中の女子が県優勝を果たし、東海大会2位、さらにこの年の全国大会で見事に初優勝に輝いた。またこの後、富士宮二中は4年連続県優勝。
平成 5年 富士宮二中の石川和美、鈴木扶美子組が全国大会個人の部で見事に初優勝。
平成 7年 富士宮二中から分離した大富士中が全国大会で初出場ながら見事3位に輝いた。
平成 8年 地元開催の全国大会で大富士中女子(団体)が初優勝。
平成 9年 東海大会男子団体戦で富士宮四、女子団体戦で富士宮一が優勝。
全国大会女子団体戦で富士宮一中がベスト8
男子個人戦で鈴木・渡辺組(富士宮一)がベスト8
平成10年 東海大会男子団体戦で大富士中男子が優勝。
全国大会で惜しくも準優勝
平成11年 東海大会男子個人戦で勝亦・山崎組(大富士中)が優勝。
全国大会男子個人戦 諏訪部・渡辺組(富士宮四)がベスト8
女子個人戦 伊藤・勝亦組(北山)がベスト8
平成12年 全国大会女子個人戦 臼井・高橋組(芝川)がベスト8
平成13年 東海大会女子団体戦で、富士宮二中が準優勝。全国大会へ
平成15年 東海大会男子団体戦で富士宮二中が準優勝。全国大会へ
平成16年 東海大会男子団体で富士宮二中、富士宮四中が1位、2位となり、富士宮から全国大会に2チーム出場という快挙を成し遂げた。
平成17年 東海大会女子個人戦で砂原・脇組(富士宮四)が5位、全国大会出場。
(3)高体連
昭和20年代は堀池敬氏の指導のもと富士高の活躍が目覚ましく、また市内では東高の女子及び男子もインターハイへの出場、国体選手を輩出した。
篠原渡氏の指導で北高も力をつけ着実な成果を上げつつあった。この3校のレベルアップは筒井真吉氏の献身的な指導のたまものであった。
昭和30年代に入り富士宮市内出身の人たちが沼津市、富士市の高校で活躍し、よきライバルとして戦った。そして、全国へ羽ばたいていった。北高に10面のコートができ、昭和35年のインターハイでのベスト8入りを契機に全国総体出場の常連となり、多くの国体選手を送り込み、その選手が活躍した。
昭和50年代から平成にかけ男子に続けと女子の部が誕生し、やがて黄金時代を築いた。
市内では伝統校としての農高も多くの選手を送り出し、星陵高が誕生し、活力のある部活動を展開し、西高も新風を吹き込み男女とも確実な力をつけて全国総体に出場するようになった。市内5校からいつでも全国総体に出場できる体制ができつつあるが、上位に進出するカベを打ち破る努力が必要である。
60年代にはいると静岡県高体連は、平成3年に本県で開催される全国高等学校総合体育大会に向けて県内各地で強化の準備に取り組んだ。富士宮市では、ソフトテニスと相撲の2競技を開催した。高体連では北高男女を強化拠点校に指定した。当時、高体連のソフトテニス専門委員長であり、北高男子ソフトテニス部の監督であった石川延房先生が企画・運営の中心となった。富士宮市の行政や市ソフトテニス協会と共に、より充実した大会運営や全国大会での上位入賞を目指した強化策がとられた。
この様な取り込みは、平成にはいると益々重点が置かれ、県の上位は男女とも北高の選手が占めるようになった。
盛大に開催された富士宮インターハイ(平3総体)では、石川芳文先生率いる北高女子が団体戦でベスト8入賞を果たし、当初の目的を達成することが出来た。
平成10年代は、西高男子の団体戦が全国大会への初出場を果たしたことに始まった。西高男子が県を2連覇すれば、北高男子が2連覇と北と西が県のトップを争う様相になった。この間、北高女子は石川先生から引き継いだ足立真一先生の下、県総体において本県初の5連覇を達成した。男子同様、西高女子も力を付け、団体・個人共に県の上位へ名を連ねる様になってきた。
近年特筆すべきは、平成8年の広島国体において伊藤大輔・伊藤淳組(宮北)が少年男子のメンバーとして出場し、全国第6位に入賞。平成13年の高校総体(熊本開催)では宮北女子が団体戦で全国第5位に入賞。この年の国体(宮城開催)では少年女子に深沢裕子・林佳奈子組深沢綾子・栗城朋美組がメンバーとして出場し、全国第3位に入賞したことが挙げられる。
今後の課題としては、ジュニア、中体連、高体連、クラブチームの一貫した指導が大きな課題となる。合同練習会や指導者の情報交換会など市ソフトテニス協会を中心とした取り組みが急がれる。
(4)実業団・クラブチーム
以前より、富士宮クラブ、大成クラブ、市役所クラブの三強が県内をはじめ全国大会等で活躍するなど、市内のレベルアップを図ってきた。最近では、ベルウッドやWTC、DOUX、星友会など若手を中心としたクラブチームの活躍が目立っている。さらに、女子では、ママさんを中心とした宮フレンドが各種大会で大活躍。特に17年度全日本シニアおよび東日本シニア大会で、山本敏子さんが優勝している。また、地味ではあるがアラカルト、友の会、弥生クラブ、紫翠会、富士フイルム、コスモス、ザ・ミッキー、KSTCなどの活躍が見られる。
5.平成17年度 加盟クラブ
No. | 名 称 | 連絡責任者 |
---|---|---|
1 | 富士宮市役所クラブ | 新谷久美子 |
2 | 富士宮テニスクラブ | 板垣明美 |
3 | 富士フイルム | 菊池久仁彦 |
4 | 大成クラブ | 米山 勝 |
5 | 宮フレンド | 佐野節子 |
6 | 富士宮テニス友の会 | 山中幸太郎 |
7 | アラカルト | 佐野 学 |
8 | コスモス | 後藤 覚 |
9 | ザ・ミッキー | 前島 匡樹 |
10 | doux | 佐野郁生 |
11 | 宮西紫翠会 | 志田浩孝 |
12 | 弥生クラブ | 四條敏明 |
13 | W.T.C | 望月隆徳 |
14 | ベル・ウッド | 森 亮介 |
15 | 星友会 | 鈴木史浩 |
16 | KSTC | 金吾幸次 |
17 | TANNY’S | 谷川広樹 |
18 | 高体連 | 菊池孝典 |
19 | 中体連 | 青島啓二 |
20 | 少年団 | 坪井正信 |
6.おわりに
現在の競技人口は、小学生から高齢者まで老若男女1000名余を有する県内でも有数な協会として活動している。特にジュニア部門(小学生、中学生)や高校生部門、さらにシニア部門では、常に上位入賞を果たすなど静岡県のソフトテニスのレベルアップに大きく貢献している。
今後も「ソフトテニスの町、富士宮」を合い言葉に、先輩諸氏が築き上げてくれた名声に恥じることのないように日々精進するとともに、生涯スポーツに最適なソフトテニスを通して市民の健康づくりに寄与していきたい。
役員名 | 氏 名 |
---|---|
会長 | 佐野正和 |
副会長 | 森島光江 |
〃 | 石田秀明 |
〃 | 坪井正信 |
〃 | 小林進 |
理事長 | 平野修 |
副理事長 | 石川英樹 |
〃 | 長谷川三世子 |
〃 | 佐野由子 |
〃 | 鈴木隆 |
〃 | 山本敏子 |
事務局長 | 平井成人 |
事務局補佐 | 助野大輔 |
書記 | 安竹孝通 |
〃 | 米山睦子 |
会計 | 五十嵐智津子 |