- 富士宮野球連盟
- 富士宮ソフトテニス協会
- 富士宮地区卓球連盟
- 富士宮市陸上競技協会
- 富士宮市バレーボール連盟
- 富士宮柔道会
- 富士宮剣道連盟
- 富士宮市弓道連盟
- 富士宮山岳会
- 富士宮市スケート協会
- 富士宮市ソフトボール協会
- 富士宮スキー協会
- 富士宮バスケットボール協会
- 富士宮市相撲連盟
- 富士宮市バトミントン協会
- 富士宮サッカー協会
- 富士宮市少林寺拳法協会
- 富士宮空手道連盟
- 富士宮市体操協会
- 富士宮水泳協会
- 富士宮市ゲートボール協会
- 富士宮市武術太極拳連盟
- 富士宮市テニス協会
- 富士宮市家庭婦人バレーボール連盟
- 富士宮市ゴルフ連盟
- 富士宮市ハンドボール協会
- 富士宮市グラウンド・ゴルフ協会
- 富士宮市インディアカ協会
● 富士宮市バレーボール連盟のあゆみ
富士宮市バレーボール連盟が結成されたのは、終戦後のようやく落ち着きはじめた昭和24年、当時富士宮市教育委員会指導主事であった塩川隆司氏を中心としたバレーボール愛好者の熱意と努力であった。
初代会長に佐野弥三郎氏、初代理事長に塩川隆司氏が就任し、富士宮市排球連盟として活動を始めた。当時は、野球・テニス・卓球の3種目が、富士宮で非常に盛んなスポーツであった。
中学校関係では、昭和22年4月に6・3制がスタートして、一気に新制中学が誕生し、どこの学校でもクラブ活動が盛んに行われるようになったことが、スポーツの振興に非常に大きな原動力になった。当時市内の中学校は、一中・二中・三中・四中の四校であった。
昭和26年、市教育委員会の協力を得て、中学生女子の大会(富士宮大会)が開催された。富士市や山梨県の身延
沿線等の近隣中学校からも参加があり(制限はしなかった)盛大に行われた。
その後、中体連の大会が開催されるようになり、富士宮近辺のほとんどの学校にバレーボール部が設置された。しかし、すべて女子で男子のバレーボール部は設置できなかった。そのことが、富士宮市の男子のレベルが遅れた理由である。
高校関係では、昭和8年旧制富士中にバレーボール部が創設され、その後の富士富士宮地区のバレーボールの振興に大きな力となった。
社会人関係では、昭和27年に市内の区対抗の部の大会が開催された。まだバレーボール人口が少なく男女混合で行われた。
昭和28年に市教育委員会の協力を得て、一般男女バレーボール大会が開催された。男子は小学校、中学校、高校の教職員チーム、市役所チーム、園池チーム、芝川の王子鋳造チーム等(富士宮、芝川地区)が出場した。女子は市役所チームや病院の看護婦チームが中心となったが、参加チームが少なかったので、高校のバレーボール部も参加して行われた。
昭和29年に富士宮としては画期的な一般男子の東西対抗バレーボール大会{富士宮民法新聞社主催}が開催された。これは神田川を境にしての東西対抗であった。
この頃富士宮選抜チームを結成し各種大会に出場し活躍するようになった。市役所の長浜進氏、佐野栄司氏、園池の選手等が活躍した。また、教職員チームは東部地区教職員大会に参加し優勝した。
このような活躍により、富士宮のレベルも徐々にアップしていった。その間、富士宮地区バレーボール界をリードしたのは、男女共に市役所チームであった。
昭和30年富士宮市体育協会設立と同時に富士宮市排球連盟も正式加盟した。当時市体育協会に加盟する数は少なかったが、皆熱心で協会を盛り上げた。そして富士宮市排球連盟というバッチを作製し会員に配布した。
しかし、当時本市のバレーボールは、まだ経験者や指導者も少なく、また、大会参加チームも少なく、しばらく低迷を続けたが、市役所の長浜進氏、関尊(元副会長)氏、佐野栄司(元理事長)氏、蛭川功己(前副会長)氏、遠藤岩男(前理事長)氏らの並々ならぬ努力よって連盟が存続されてきた。
婦人関係では、昭和35年に貴船小学校内でPTAバレーボール大会が開催されたのがスタートである。その中で後の芙蓉クラブの前進であった富士チームが大変精鋭なチームで、県大会へも出場した。PTAのバレーボール大会を基盤にして芙蓉クラブが成長し、昭和51年には晴れて全国家庭婦人バレーボール選手権大会に出場して第3位の栄冠に輝いたのである。
このことは、東京オリンピックの活躍で他のスポーツと同様に発展してきたバレーボール界、特に婦人バレーボールに大きな影響を与え、PTAを中心に各地区に婦人バレーのクラブ結成がなされた。松本喬氏、小野田能三氏、清延吉氏らの熱心な指導者が中心となって、レベルアップの向上が図られたと言える。
その頃中学関係では、加藤理先生を中心に金子歳男先生や松本武先生等が熱心に指導され、今日の基礎づくりに努められた。
昭和51年、富士写真フイルムの松本喬会長(三代目会長、元富士写真フイルム男子チーム選手)誕生によって、富士宮市バレーボール連盟と改称し、当時松本氏の部下であった田中秀孝、佐藤正人両氏(元日本リーグ所属の富士写真フイルム男子チーム選手)が、市教育委員会主催のバレーボール教室の指導者としてそのらつ腕をふるった。同時に遠藤岩男氏、石川俊秋氏らを中心とした市役所職員(チーム)による巡回バレーボール教室も開かれ、婦人バレーボールの普及は目を見張るものがあり、区等を中心としたクラブが多く結成されてきた。
その後、それまで連盟配下にあった婦人の部を、松本喬会長や当時市教育委員会
指導主事の鈴木恒宏(前会長)氏、渡辺卓(初代婦人バレーボール連絡協議会長)氏らの努力によって婦人バレーボール連絡協議会として独立を図り、婦人の生涯教育への道を開くとともに、連盟の本来の目的である小・中・高校などの底辺の拡大に取り組んだ。
一方、長らく低迷を続けた社会人も、同じ昭和51年に第1回社会人バレーボール大会が開催され、企業チームやクラブチームなどが参加し、社会人バレーボールの復活が図られた。
昭和52年に中学校のレベルアップを図るために、念願だった富士・富士宮地区の上位校が対戦する富士地区大会が開催された。
婦人バレーボール連絡協議会(現富士宮市家庭婦人バレーボール連盟)独立後、底辺の拡大を模索していた連盟は、市教育委員会の指導の下、小学生へのバレーボールの普及に踏み出した。昭和56年市教育委員会主催による小学生バレー教室が開催され、当時市教育委員会指導主事の伏見由治氏、また、その指導にあたった木内久仁彦氏、佐藤正人氏、石綿仁氏、遠藤一裕氏、片岡日出人氏、吉田和保氏らによって初めてバレーボールスポーツ少年団が結成された。昭和59年に富士宮市バレーボール少年団連絡協議会が結成され、初代会長に石綿仁氏が就任し少年団活動の基を築いた。その後、二代目会長に渡井英光氏、現在三代目会長に新妻孝氏が就任し精力的な活動がなされている。
昭和58年、理事長に伏見由治氏が就任し、組織の改革が行われた。指導普及部・審判部・企画運営部の3部制からなり、指導普及部長に中林保彦氏、審判部長に海野茂雄氏、企画運営部長に利根川勝臣氏がそれぞれ就任し、体制づくりが確立された。その後、昭和60年審判部長に望月隆治氏、平成元年には指導普及部長に加藤不二紀氏が、また、平成2年には指導普及部長に望月忠彦氏、平成6年指導普及部長に遠藤一裕氏が就任し現在に至っている。
昭和61年、松本武(四代目会長)氏が会長に、鈴木恒宏氏と清延吉氏がそれぞれ副会長に就任した。この年の夏、富士宮第二中学校女子チームが県大会優勝、東海大会準優勝に輝き、全国大会に出場してベスト16に入賞するという、地区始まって以来の快挙を成し遂げた。このことは、連盟を中心として、小学生・中学生・高校生・社会人や婦人の各部で、それぞれの関係者が努力されたたま物である。この実績は全国のバレーボール関係者の認めるところとなり、中学校女子の全国のトップレベルが参加する稲山杯大会(日本バレーボール協会参与、東京オリンピック女子専任コーチの稲山壬子氏の功績を記念)が、本市で開催されるようになり、さらに地区のレベルアップに大いに貢献するようになった。
昭和63年、鈴木恒宏氏が会長(五代目会長)に、市役所関係で長く事務局を担当していた石川俊秋氏と、市スポーツ少年団の理事長として功績があり、また市バレーボール少年団育成連絡協議会会長の渡井英光氏の両氏が副会長に就任した。
この年、スポーツ少年団設立5周年記念として、当時日本リーグに所属していた富士写真フイルム女子チームによる実技講習会が、石綿仁氏らの努力によって開催され、以後平成6年まで毎年行われ、小・中学校のレベルアップにつながった。
また、片岡日出人氏、吉田保和氏、池田宏行氏、新妻孝氏、大黒健二氏、佐野徳芳氏、柏瀬良子氏、内藤美波子氏らの熱心な指導により、男女とも東部大会県大会に入賞するほどになった。現在、新妻孝氏、安田研一氏、鈴木隆弘氏、小山かつよ氏が中心となって活躍している。
平成元年、地区周辺(県外含)の中学校男女チームを招待して行う塩川杯(初代理事長の塩川隆司氏の功績を記念)大会が開催され、以後毎年実施されている。なお、中学校関係では現在、後藤康文氏、吉川浩氏らが中心となって活躍している。
平成2年、多くの市民が熱望していた市民体育館がオープンし、その落成記念として男子実業団の人気チーム、日本リーグ所属の富士写真フイルム対日本鋼管のゲームが行われた。大会開催会場としては規模及び施設として申し分なく、今後大きな大会の開催が可能になり、スポーツ観光都市としての発展の一翼を担っている。
平成3年に富士根南中学校女子チームが、県大会及び東海大会で準優勝に輝き、地区2度目の全国大会に出場し、地区のレベルを不動とした。
それまで一時低調だった社会人の部が、平成5年頃から復活の兆しを見せ、平成7年のバレーボール祭には、男子の部に13チーム、女子の部に9チーム、親睦の部に12チームが出場し、過去にない盛況ぶりで今後が大いに期待される。
平成6年春季東部選手権大会において、富士根南中学校男子が初優勝し、翌年、同校が県選手権大会で準優勝に輝き、それまで低迷していた中学男子のレベルが、一挙に県レベルまで引き上げられた。
平成5年に、少年団と中学のつながりを強めたいという願いから、小中交歓会が開催された。少年団のチームと、中学1年生主体のチームが試合を行った。小学生にとっては、中学へ行ってもバレーボールを続けて上手になりたいという気持ちを強く持つ会となっており、富士宮のバレーボール隆盛の礎となっている。今も毎年1回開かれ、県外から参加するチームも見られるほど、盛大になっている。
平成8年7月の県選手権大会中学女子の部で、富士宮第二中学校と富士根南中学校が、決勝戦で激突し(それまで市内の1校が県の決勝を戦ったことは何回かあるが)富士宮地区同士の初の県大会決勝戦という快挙で、永年の夢が達成されたことは、
記憶に新しいところである。
平成11年より、副会長であった石川俊秋氏が会長に就任。高校の中林保彦氏、少年団の新妻孝氏が副会長となった。
平成12・13年には朝日生命のスポーツ支援事業の一環として、中学生に対するバレーボール実技講習会が行われた。
また、同年には、星陵高校女子バレー部が、全国私立選手権大会に出場という輝かしい戦績を残している。近年、国体や春校バレーに出場する市内出身の高校生が多数輩出され、富士宮市のバレーボールの実力が確実に上向いていることを証明している。
平成14年には高校の望月隆治氏、社会人の桑原敏氏が副会長に就任し、現在へ至っている。
少年団に目を向けると、市内チームの東部大会や県大会での活躍もさることながら、夫婦都市である近江八幡市の代表チームとの交流を平成14年以来続けていることが評価されるであろう。バレーボールを通じて友好の輪を広げ、さらには人間育成に力を注いでいきたいという指導者の姿勢の表れである。
平成16年に日韓交流試合が開催され、小学生は韓国での大会に、中学生は二本での大会に多数参加し、全日本のユニフォームを着て試合に出場した。 この間、富士写真フイルム株式会社には、各大会の会場として体育館を快く提供していただき、また、加藤喜久雄氏、古谷馨氏、遠藤弘氏、渡辺満雄氏等には実技講習会の指導者の派遣や実業団チームの招待試合の開催等、本市のバレーボールの発展に大いにご支援・ご協力をいただいた。
● 小学生バレーボールのあゆみ
昭和57年、市教育委員会主催による「小学生バレーボール教室」を開催し、教室終了後希望によりスポーツ少年団を結成(富士宮中央バレーボールスポーツ少年団)したのが本市小学生バレーボールの誕生であった。
昭和58年に、富士根南アスナロ、市内西部にフレンズ、上野地区に上野の3団が、その後、貴船、大宮、黒田、富士見の4団が結成された。小学生の育成に熱心な地元岳南朝日、岳陽両新聞社の協力をいただき、2大会が開催されるようになった。
また、少年団結成に伴い、昭和59年に連絡協議会が発足し、各団の連携や指導者の研修、あわせて父母の協力体制づくりが進められた。なお、この年に連絡協議会主催による団員の技術アップと団員相互の交流を深めることを目的に、朝霧野外活動センターを会場に交歓合宿もスタートした。
昭和60年第1回バレーボール連盟会長杯大会、昭和61年市民スポーツ祭大会、平成元年連絡協議会会長杯小野田杯が関係各位の尽力により開催されるようになり、小学生バレーボールが盛んになった。平成元年には大富士バレーボール少年団が、平成11年には北山バレーボール少年団が結成されて、市内10団体となり、また近隣から元吉原バレーボール少年団や芝川バレーボール少年団も加入して現在に至っている。
昭和61年県大会において富士根南アスナロ男子が3位入賞、同年第1回全日本ブロック別東海大会においても同チームが3位入賞の栄誉に輝いた。これにより、各チームとも目標が持てるようになり、平成8年にはフレンズ男子がライオンカップ東海大会に出場、平成14年及び平成16年に富士見男子が県民スポーツ祭大会市対抗部門で優勝するなどの輝かしいあしあとを残している。
昭和63年10月、少年団設立5周年記念事業として、実業団富士写真フイルム女子チームによるバレーボール教室が開催され、以後平成6年まで毎年行われ、富士宮市のレベルアップにつながった。
平成4年、設立10周年記念大会が連絡協議会の手によって企画され、市外・県内チームを招待して盛大に行われた。
平成5年冬、小・中交歓会が開催された。この交歓会の趣旨は、少年団の子供たちは先輩達が行っている中学での部活動がどんなものかを同じ1つのコートに立ちボールを通じて体験すること、中学生は声や技術だけでなく自分達の想いを後輩達につたえること、そうした子供たちを中心に父母や指導者がお互い心置きなく話し合える機会とすることであった。この小中交歓会は以後も毎年続いているが、特に平成8年冬のことは忘れ得ない。前日から降り積もった大雪で開催も危ぶまれたが、子供達や父母の力によって体育館に通じる道を雪かきする姿があり、予定よりも少ないチーム数であったが何とか交歓会を行うことができた。このような連携は県内他地区にはどこにも見当たらず、小学生バレーボーラーに希望と夢を与える誇りある事業として今後も継続していきたい。
平成14年に設立20周年を祝して、記念大会、記念誌発行、記念式典の事業が盛大に行われた。記念大会には市外近隣チームのほか本市と夫婦都市である近江八幡市より男・女各1チームを招待して交流が行われた。そしてこれを機に、同市とは交互に代表チームを招待しての交流が毎年行われるようになり、ホームステイや交流試合などを通じて友好の輪と思い出が広がっている。
少年団設立23年を振り返る時、少年団で育てられた子供たちが、中学・高校・社会人チームでのめざましい活躍を経て、今度は子供たちの育成指導に当たっている姿も数多く見られる。更に、初めてバレーボールに触れ、出来るかなと心配しながら子供の成長を願う熱心な育成会活動に支えられて継続できていることに感謝するとともに、指導者の方々に更なる力を与える節目となっている。
● 中学生バレーボールのあゆみ
富士宮市における中学生初の大会は、昭和26年に行われた「富士宮大会」である。それ以来、男女ともに年々その活動は盛んになり、近年では、各種の大会で優秀な成績を上げるようになった。
まず男子に注目し、そのあゆみを振り返ってみよう。
男子バレーボール部は、富士宮一中、富士宮二中、富士宮四中、富士根南中、北山中の五校でスタートした。徐々にそのレベルは上がり、平成2年の中体連東部大会で、富士根南中学が第4位に入賞、平成4年には富士宮四中が初の県大会出場を果たした。残念ながら北山中、富士宮二中男子バレー部が廃部となり、富士宮一中、富士宮四中、富士根南中の3校だけとなったが、富士根南中が県大会に何度か出場し、男子バレーを盛り上げた。
平成9年以降、富士根南中に変わって富士宮一中が安定した力を発揮し、富士宮地区大会を制することが多くなった。また、東部大会でも勝ち進み県大会へも顔を出すようになった。
平成10年には、富士根南中が春季東部選手権と中体連東部大会で優勝する快挙を成し遂げた。しかしこの時点ではまだ、県大会1回戦を勝ち抜く実力は無かった。
平成11年頃から市内大会を行うたびに優勝するチームが変わるようになった。市内のチーム力が均衡する一方で、東部大会で優勝を争ったり、県大会でもベスト8になったりと素晴らしい活躍が見られるようになった。
平成12年以降の活躍はさらに素晴らしく、東部地区はもちろんのこと県の上位に常に君臨し、富士宮のバレーが恐れられるようになった。特に、平成13年から、3年連続で富士宮勢が中体連県大会を勝ち抜き東海大会へ出場する(平成13年は富士根南中、平成14年・15年富士宮四中)快挙を成し遂げるなど、そのレベルの高さが他地域でも認められるようになった。
続いて女子に注目し、そのあゆみを振り返ってみよう。
昭和48年に、富士宮三中女子が中体連東部大会で第5位、県大会出場を果たしたのが最初の入賞だった。その後、昭和53年の中体連東部大会で上野中が初優勝し、同県大会で3位に入賞した。さらに、昭和61年の中体連東海大会で富士宮二中が準優勝に輝き、富士宮初の全国大会出場を成し遂げた。
全国大会出場をきっかけに、活動はさらに盛んになり、昭和62年より、本市において「稲山杯女子バレーボール大会」が開催されることとなった。この大会は、全国トップレベルのチームが参加する大会であり、本市のバレーボールがさらにレベルアップする原動力となった。
平成3年には富士根南中が東海大会を第2位で抜け、全国大会に進出した。また、平成8年には中体連東部大会の決勝戦を富士宮二中と富士根南中で行われた事もあった。県大会では富士宮二中が第3位となり東海大会ベスト8を果たした。
富士宮二中はその後も実績を重ね、県大会常連校として、その名を轟かせるようになった。平成10年、11年と連続して東海大会に進出し、平成12年には東海大会優勝、全国大会決勝トーナメント進出という偉業を成し遂げた。中体連東海大会常連校となった富士宮二中は、少年団のバレーボール選手にとって、あこがれのチームとして存在している。
他の中学も、東部大会で優秀な成績を収めたり、県大会出場を果たしたりするなど努力を重ねている。今後の活躍が期待されている。
男女ともに、以上のような素晴らしい成績を上げられるようになってきた背景には、中学校顧問の指導もさることながら、少年団指導者の努力が大きな影響を及ぼしていると言える。基本動作の反復練習を始めとする技術的なことから、あいさつや行動に至るまで、細かい指導を辛抱強く行っているからこそ、中学校の大会で多くの成果を上げられるのである。
今後も、少年団でしっかり指導されてきた子ども達に加え、中学校で初めてバレーボールを行う生徒達とともに、富士宮市のバレーボールがもっと盛んになるように努力していきたい。
● 高校生バレーボールのあゆみ
小・中・高の一貫を図ろうと連盟が乗り出したのが昭和50年代後半であった。高校の指導者にも連盟役員と
して協力していただき昭和57年からレベルアップを目的に、連盟会長杯大会が開催された。
それまでは大会に出場していたがこれといった成績もなく低迷状態であった。女子においては、昭和58年秋の県選手権大会で富士宮西高が準優勝という地区始まって以来の快挙であった。その後、昭和59年の秋の県選手権大会、県新人大会において富士宮東高が3位入賞を果たし、さらに同高は昭和60年の高校総体県大会で準優勝に輝き、東海大会でもベスト8と活躍した。なお、その活躍が認められ、同高の深沢まゆみ選手(柚野中出身)が富士宮地区の高校生としては初めて、第40回国民体育大会に県選抜チームの一員として出場した。
その後しばらくは富士宮地区の学校で県大会の上位に入る高校はなかったが、富士宮地区出身の選手が富士の富士見高校で活躍し全
国大会、国体に出場するという年は何年か続いた。そろそろ富士宮地区の学校からも全国をと願っていた時、ついに星陵高校がその名を県下に、また全国に轟かせてくれた。中学の県選抜選手(高野千佳、望月桃子=富士宮2中出身、鈴木里奈=富士根南中出身)の3人が入学した平成12年度から、平成12、13年度と2年連続で県高校選手権大会で準優勝し東海大会に出場。また、全国私立選手権大会東海予選では平成12年度3位、13年度は優勝し、2年連続で全国私立選手権大会に出場した。また、同校は平成13年度の春高バレー県大会で決勝戦まで進み、ついに全国大会かと期待されたが惜しくも静岡市商に敗れ、富士宮地区初の全国大会出場はならなかった。
なお、高野千佳選手は第56回国民体育大会(宮城)に県代表の中心選手として出場し全国5位という輝かしい結果を残した。また、第57回国民体育大会(高知)の東海ブロック予選には高野千佳選手(富士宮二中出身)と鈴木里奈選手(富士根根南中出身)が県代表として出場したが第2位で惜しくも本大会はのがした。
平成14年度からは、今まで女子ばかりが目立っていた富士宮市のバレー界に男子の活躍が目立ってきた。中学校のレベルがアップし、その中でも特に富士根南中、富士宮四中出身の選手が下田南高、清水商高で中心選手として活躍し、全国総体、国民体育大会に出場した。今後は星陵高校の活躍のように、中学の優秀選手が富士宮地区の高校に進学して全国大会を目指せるように、中学との連携を図るとともに富士宮地区の高校の一層のレベルアップを期待したい。
なお、富士宮地区出身で他地区の高校で全国大会に出場し、活躍した選手は以下のとおりです。
- ☆平成元年度 全国高校選抜優勝大会(春高)・全国高校総体(徳島)出場。
- 田丸知恵・田中美沙子・井出淳子・稲葉嘉美・東海林由紀子(以上富士宮二中)、石井三和(富士宮三中)、片岡千晴・沼沢友美(以上富士根南中)=全員富士見高校
- ◎平成元年度 国民体育大会(北海道)出場
- 田丸知恵(富士宮二中)=富士見高校
- ☆平成4年度 全国高校総合体育大会(宮崎)出場。
- 谷米幸子・佐野景子(以上富士宮一中)、佐野真子・小林万里・川崎弥香・厚木友紀、原野佳子(以上富士宮二中)、岩崎留美・辻亜希(以上富士宮二中)=全員富士見高校
- ◎平成4年度 国民体育大会(山形)出場。=準優勝
- 谷米幸子・佐野景子(以上富士宮一中)、佐野真子(富士宮二中)、岩崎留美(富士根南中)=全員富士見高校
- ☆平成6年度 全国高校総体(富山)出場。
- 遠藤真弓(富士宮一中)、戸塚未央・原野裕美(以上富士宮二中)、笠井美幸(富士宮四中)、辻亜希(富士根南中)、森裕子(上野中)=全員富士見高校
- ◎平成6年度 国民体育大会(愛知)出場。
- 辻亜希(富士根南中)=富士見高校
- ◎平成7年度 国民体育大会(福島)出場。
- 遠藤真弓(富士宮一中)、原野裕子(富士宮二中)=全員富士見高校
- ☆平成10年度 全国高校総体(高知)出場
- 亀山美香(富士宮二中)、遠藤由佳(富士宮三中)、塩川啓子(富士宮四中)=全員富士見高校
- ◎平成11年度 国民体育大会(熊本)出場
- 亀山美香(富士宮二中)、遠藤由佳(富士宮三中)=全員富士見高校
- ☆平成13年度 全国高校選抜優勝大会(春高)出場
- 貫奈昴広(富士宮四中)=清水商高
- ☆平成14年度 全国高校選抜優勝大会(春高)出場
- 吉野未知也(富士根南中)=下田南高校
- ◎平成14年度 国民体育大会(高知)出場
- 貫奈昴広(富士宮四中)=清水商高
- ◎平成15年度 国民体育大会(静岡)出場
- 吉野未知也(富士根南中)=下田南高校
- ☆平成16年度 全国高校選抜大会(春高)出場
- 渡辺宏彰・渡辺慶仁(富士宮四中)=下田南高校
- ◎平成16年度 国民体育大会(埼玉)出場
- 神山瑞貴(富士根南中)=清水商高
● 社会人バレーボールのあゆみ
過去に幾つかの大会が開催されたようであるが、社会人では、今年度で第26回目を迎えた市民スポーツ祭、第14回目を迎えた連盟会長杯、第12回目を迎えた市民バレーボール祭と3大会を中心に、年間の活動を行っている。昭和58年に第1回市民スポーツ祭が開催され社会人の部として参加し数年は、バレー熱盛んな時期もあったが、次第に衰退の一途をたどった。その後、平成4年に第1回連盟会長杯と親睦を兼ねて父親親睦大会を開催し、徐々にバレーボール人口が拡大されていった。平成5年の第11回市民スポーツ祭では男子13チーム、女子5チームの参加があり、平成6からは、各大会の男子の部を2部制をとるほどに盛んになってきた。平成6年に父親親睦大会を更に発展させるために、名称を市民バレーボール祭と改めて、男女混合可で親睦の部を設けて実施したところ、一般男子の部に13チーム、女子の部に9チーム、親睦の部に12チームの参加があ加があり、過去にない盛況ぶりであった。平成12~13年の7回、8回大会では、親睦の部に24チームの参加を記録、ここ数年は、20~23チームの参加があり、今後の開催がたのしみである。
最近の社会人の傾向とそしては、強豪のクラブチーム・実業団チームに参加し、個々のレベルをアップし、既存チーム内のレベルを上げていく傾向があり、今後市内大会はもとより富士地区大会・東部大会・県大会そして全国大会などで活躍が大いに期待される。
バレーボール連盟は今後も小・中・高・社会人のつながりを保ち、関係各位の協力を得ながらバレーボール発展のために尽くしたいと考えている。
● 令和5~6年度 富士宮市バレーボール連盟 役員名簿と団体名
団体名 ○:活躍中 |
チーム名 | 女子 | 男子 | チーム名 | ||
小年団 | 東中央VSC | ○ | ○ | 社会人 | ゆとり |
上野VSC | ○ | スクラッチ | |||
富士根南VSC | ○ | ○ | チャーカラ | ||
北山VSC | ○ | クローバー | |||
貴船WESTVSC | ○(混合) | チームカラス | |||
黒田VSC | ○ | 花見やろうぜ会 | |||
富丘フレンズVSC | ○ | ○ | 飛笑会 | ||
大富士VSC | ○(混合) | お気楽クラブ | |||
富士根北VSC | ○ | くうちゃん | |||
大宮VSC | 休部中 | ルースクラブ | |||
富士見VSC | 休部中 | ディセプション | |||
(富士JVC)※ | ○ | 御爺児倶楽部 | |||
(富士サイプレス)※ | ○ | 挙動 | |||
(富士川VSC)※ | ○ | 江戸夢羅沙姫 | |||
中学校 | 富士宮一中 | ○ | ○ | NOAH | |
富士宮二中 | ○ | CMI | |||
富士宮三中 | ○ | TEAM AYU | |||
富士宮四中 | ○ | ○ | OCEAN APES | ||
富士根南中 | ○ | ○ | Bear’s | ||
富士根北中 | ○ | GMV | |||
北山中 | ○ | ALL STAR | |||
大富士中 | ○ | espoir | |||
西富士中 | ○ | animals | |||
上野中 | ○ | 富士宮ゴルフクラブ | |||
柚野中 | ○ | SUNTERAS | |||
高校 | 富士宮東高 | ○ | ○ | 情報処理部 | |
富士宮西高 | ○ | ○ | フライデーズ | ||
富士宮北高 | ○ | ○ | sandays | ||
星陵高 | ○ | ○ | ぐりも!! | ||
富岳館高 | ○ | BEC | |||
篁家 |
☆小学生:黒澤 朗(090-3307-1990)
☆中学生:加納 理宏(090-8181-1427)
☆高校生:望月 隆治(090-9197-7415)
☆社会人:後藤 貴之(090-1470-5494)